趣旨
僕が上京しない理由を、地方に留まる理由を、トーキョーという街の考察と共に述べる。
トーキョー至上主義である方々に、トーキョーの問題点を提示できたら幸いである。
背景
なんでもかんでも「トーキョー!」「シブヤー!」という気配が濃厚に漂っている。
“トーキョーに来れば何かが起こるぜ!”という根拠のない電波が首都から発せられている。
“トーキョーに来れば何かが変わるぜ!”という根拠のない自信が首都から発せられている。
“トーキョーに来れば何でもあるぜ!”という未証明な命題が首都から発せられている。
“トーキョーはすべての発信地だぜ!”という謎の気負いが首都から発せられている。
“トーキョーはあらゆる人を/物を/芸術を/奇行を/商いを/性癖を/すべてを許すぜ!”というクソな傲慢が首都から発せられている。
しかし待て。
そんなにトーキョーは良いものだろうか?
そんなにトーキョーは刺激的だろうか?
そんなにトーキョーは懐深いだろうか?
君の生活を革命する力がトーキョーにはあるだろうか?
君の人生を変革する力がトーキョーにはあるのだろうか?
初めてのトーキョー
僕が初めてトーキョーに行ったのは、小学校の修学旅行だった。
東京タワーに興奮し、班別行動で迷子になった。
人の多さに興奮し、車両の長さに違和感を覚えた。
迷子になったときに道を教えてくれた漬物屋のおばちゃんは、おばちゃんだった。
夢に見たやんごとなきトーキョー都民ではなく、ただの凄く良い人だった。
車両の多い電車が滑り込む駅のホームも長かった。
駅のデカさは汚さと相関関係があるように見えた。
夢に見た遥けきトーキョーの駅は、荘厳でも綺麗でもなく小汚くさえあった。
そう。
トーキョー都民もトーキョーという街も、なんら変わり映えしないニッポンであった。
トーキョー旅行
月日は流れ、私は大学生になった。
トーキョーに旅行するような青年になった。
東京国際ブックフェアでテンションが上がり、神保町で古本を求めた。
神保町のためだけに、大学は上京すれば良かったかもなって少し思った。
歩き疲れた僕は、ぶらぶらしながら目に入ったお店に入った。
飲食店の面積問題
休憩のために喫茶店に入った。
食事のためにレストランに入った。
平日の昼下がりでも賑わう飲食店は、さすが都会だと思った。
そして、思った。
ちょっと椅子を引くと背後の客に当たるし隣のテーブルとの距離が近い。
大声で話してるわけでもないのに、いやに周りが騒がしい気がする。
そう。トーキョーの飲食店は軒並み狭いのだ。
狭すぎて窮屈で狭くて食事どころの騒ぎじゃない。
ここで僕は、トーキョー特有の距離を実感したのだった。
トーキョーの飲食店は狭い!という私の直感の傍証となる資料がある。
の、【資料12】人口集中地区の人口密度と商業施設の一人当たり床面積(都道府県別)によると、人口密度が高くなると商業施設の一人当たり床面積は狭くなることが分かる。
これを踏まえて、下記の論文がとても興味深い内容になっている。
http://www.gifu-nct.ac.jp/archi/fdai/pdf/usuiharuka.pdf
これら論文によると、飲食店利用者はその時の感情によって求める空間が異なる。
怒ってる時や哀しい時、負の感情のときには狭い場所を求める。
楽しい時や笑っている時、正の感情のときには広い場所を求める。
つまり、トーキョーという地において飲食店に入ると違和感があるのだ。
楽しい気分の時に求める空間的特性、すなわち広さがないからだ。
悲しみを湛えて入店すれば違和感はないんだろうけれど、そんな気分で外食なんてしない。
これは、非常に大きな問題ではないだろうか。
食事という生活の上で必須となる部分で、外食というイベントで、楽しい気分では違和感を強制される街。それがトーキョーだ。
土地代や家賃や物価から、客数や客単価や回転数から、利益を求めなければならない状況では致し方ないのかもしれない。
しかし、それらを踏まえたうえで、ゆったりとソファにくつろげる喫茶店をやろうという気概もねーのかてめーらは!
クソしかいねー世の中だぜ、まったく。
パーソナルスペースという縄張り
上記のような論文を提示せずとも、多くの人から賛同を得られると予測される命題がある。
見知らぬ赤の他人がすぐ横にいるのは嫌だ!
これは普通で普遍的な感覚ではないだろうか。
(男性諸氏に関しては、横にいるのが若い美少女の場合はこの限りではないだろうが)
緊張感のある食事は楽しめないし、ゆっくり寛いで楽しみたいのが人情だろう。
この感覚は、人間の持つ縄張り意識によるものだ。
心理学でいうパーソナルスペースのことである。
個人差はあるが、人は誰しもナワバリを持っている。
だからこそ、飲食店は広くあるべきだと思う。
この点において、トーキョー都民はナワバリ意識が欠如しているのではないかと推論する。
ナワバリ意識のない人間が寄せ集まって、そこで芸術だ文化だ時代だ!と叫んでも滑稽である。
お前のスペースをトーキョーという都市計画に、換言すれば社会に奪われていることに気付け!
お前が守るべきナワバリが社会に侵されていることに、商業都市に犯されていることに気付け!
君が君でいるナワバリが欠落したとき、君はトーキョーという街と一体化するだろう。
その時、トーキョーは特別でもなく自分は一旗揚げることもできないと悟るだろう。
君はトーキョーという都市に負けるのだ。
人の多さに負けるのだ。
君が君でいられる程の面積を、トーキョーは君に用意していないのだから。
空間的経験論
ここからは精神性の高い、私がどうしても主張したいことを述べていく。
そもそも空間とは何であろう?
君が保つべきナワバリを包括する空間とは?
空間とは累積した経験だと私は考える。
行ったことのない場所が新鮮に思えた経験があなたにはないだろうか?
行き慣れたコンビニの変わりばえしない商品棚を見て日常を感じたことは?
私はしょっちゅうある。
なぜそのように思うのか。
それは、私がその場所を経験しているか否かによる''のではない”。
それは、空間の方が私を経験しているか否かによるのだ。
空間の方が私というナワバリを既知かどうかなのだ。
変わりばえしない商品棚は、新しい商品がないからこそ空間は以前と同型だ。
(厳密に言えば、商品の個数と製造日を除いて同型である)
新しい商品に目が留まるのは、一部が新しい空間になっているからだ。
その新しい空間は、僕というナワバリを今知ったところだ。
空間こそが私に新鮮味や日常を与えるのである。
では、トーキョーの場合はどうか?
次々と新規オープンする店や、改装が続く駅や、圧倒的な人混み。
空間はそれらを処理しきれているか?
答えはNoである。
君が行き着けにしているコンビニは君のことを覚えていない。
特に、ナワバリを失いかけている、もしくは失った君のことは覚えられない。
累積されるべき経験が、まったく累積されないのだ。
それは街の移り変わりの早さのせいでもある。
君たちのナワバリが曖昧になったからでもある。
人が多すぎて空間の方が薄められているからでもある。
空間こそが主体であるところに、ナワバリ意識もない人間が大挙することで立場が逆転しているのだ。
トーキョーは冷たいとよく言われるが、そうではない。
トーキョーに住む人間が冷たいのではない。
トーキョーという街が人間に冷たいのではない。
トーキョーという街を闊歩する人間がナワバリ意識を持たない為に空間が経験を積めず、結果として全てが排他的になっているのだ。
最後に
違うアプローチから社会と戦うために僕はトーキョーには行かない。
社会は手強く、あらゆる方面から僕たちをクソにしてきやがるのだ。
だから、クソしかいねー世の中で、トーキョーにて、君がナワバリを持ち続けることを願う。
君が、このクソな社会と戦うことを願う。
特に、ナワバリ意識のない男なんて死んだ方がいいくらいダサいからね!